Japanese Translation of "A Pale View of Hills" カズオ・イシグロの「遠い山並みの光」の翻訳

Japanese follows English. 英語の後に日本語が続きます。

I read "A Pale View of Hills" by Kazuo Ishiguro a few years ago. The book was my second Ishiguro's book after "Never Let Me Go." I enjoyed reading the book, in particular, a surprising tone change at the end of the story. The change is subtle, but I found it amazing that only a few words could completely change the view of the story. The passage was as follows:
----------------------------------
'"You're not to speak like that," I said, angrily. We stared at each other for a moment..........
"In any case," I went on, "if you don't like it over there, we can always come back...."'
----------------------------------
When seeing the term "angrily," I felt a slight but sudden tone change because Etsuko, the narrator and protagonist, who I thought was not an emotional or unstable women, got angry so easily at remarks made by a child like Mariko, the daughter of a friend of hers, Sachiko.

But what surprised me most was the "we" part. Until that part, I had thought that the book was about the lives of two women, i.e., Etsuko and Sachiko, who were under similar tough circumstances, but separate individuals. But when I reached the "we" part, such understanding crumbled because the subject was not "you," but "we" and the tone no longer "aloof," but "engaged." At that point in time, I realized that these women might be the same person or represent the two sides of one woman, i.e., Etsuko.

It also gave me some kind of answer to the question I had been asking myself while reading this book why Etsuko seemed so sad or had a sense of guilt, why Etsuko's eldest daughter Keiko had killed herself or what Etsuko was trying to achieve by telling what had happened so long time ago far away in Japan. Is it because Etsuko is finally ready to face up to the past or she is trying to do so, but only indirectly through her (imaginary?) friend Sachiko or is she just trying to justify what she did or did not do to poor Keiko?

I wanted to share these questions with someone, but could not find anyone in Amazon reviews, so I bought a Japanese translation and compared the above English passage and its Japanese translation. And I found that the passage in Japanese could be read as follows:

'"If you don't like it over there, you can always come back."'

The reason for this misinterpretation is clear. No reference is made to the subject in the Japanese translation. And the reason for this lack of the subject is also evident. Japanese tends to avoid the subject because its repeated use is unnatural. So, in general, as far as the subject is clear, no reference is made to it. Actually, in this Japanese passage, as the subject of the first half of the sentence is obvious (i.e., you or Mariko), no subject is stated in it and because there is no subject in the second half of the sentence to avoid unnaturalness, it is natural for the reader to assume that the subject of the second half of the sentence is the same as that for the first half, i.e., "you." (I.e., This Japanese sentence includes no subject at all.)

So, if someone reads this book only in Japanese, it is impossible to see this complete change of the subject or perspective from "you" to "we" and a change of tone from "aloof" to "engaged."

If you have read "A Pale View of Hills both in English and Japanese," please let me know what you think. I would appreciate it if someone could enlighten me.

(If you wish to post your comment but don't have a Google account, select "anonymous" from the drop down menu titled "comment as"!) 

数年前、カズオ・イシグロの「遠い山並みの光」を読んだ。その前に「私を離さないで」を読んでいたので、「遠い山並みの光」はカズオ・イシグロの本で二冊目になる。

とても面白く、特に終わりに近い部分には、全体の印象を大きく転換させた個所があってとても感動した。ところが、その感動を共有しようとアマゾンレビューを見ても、同様の感想がない。そこで日本語訳も読んでみた。問題の箇所は日本語訳だと以下のようになる。

「『そんなことを言うものじゃないわ』私は怒った声を出した。中略 『とにかく、行ってみて嫌だったら、帰ってくればいいでしょ』」

最初にあれっと思ったのは、「怒った」のところだ。というのも、悦子(この物語の主人公で語り手)は、万里子(悦子の友人の佐知子の娘)のような子供の言葉にいちいち腹を立てるような感情的、不安定な女性としては描かれていなかったからだ。ただ、この部分は英語と日本語にそれほどの差はない。

英語で読んだ時に「全体の印象を変える」ほどの感動を覚えた個所は、その次の部分である。

「とにかく、行ってみて嫌だったら、帰ってくればいいでしょ」

何気なく読んでしまうが、これに主語を補足するとこうなる。

「とにかく、あなたが(you)行ってみて嫌だったら、あなたは(you)帰ってくればいいでしょ」(下線は当ブログの筆者)

しかし、英語原文と翻訳は以下のようになる。

"if you don't like it over there, we can always come back...."
「とにかく、あなたが(you)行ってみて嫌だったら、私達は(we)帰ってくればいいでしょ」

つまり、ここまで淡々とした人物として描かれてきた悦子が、ここにきて急に、「怒った」声を出し、「他人事(you)」ではなく、「自分達の事(we)」として語り始める「物語の転換」に、私は驚きを覚えたのだ。この部分を読むまで私は、悦子と佐知子は、似たような境遇にはあるが、別々の人間だと思っていた。が、「we」のところで、その理解は崩れ、二人が同一人物、あるいは一人の人間の二つの側面ではないかと思い始め、悦子と佐知子の二人の人物像の境界がおぼろになり始めた。

この転換は、主語が「you(つまり他人事)」から「we(自分達の事)」に変わることで実現されているが、日本語訳ではそれは分からないのではなかろうか。

訳としては、「とにかく、行ってみて嫌だったら、帰ってきましょう」ぐらいがいいのではないかと思う。

「遠い山並みの光」を英語と日本語の両方で読んだ方がいらっしゃしましたら、是非ご意見をお聞かせください。

(Google アカウントを持ってない方は、コメント記入後に「Google アカウント」をクリックし、「匿名」か「名前/URL」を選択してからご記入ください!)

5 件のコメント:

  1. 恐らく出版社側(編集者)の商業的事情、編集者の力量不足があって、十分に翻訳をチェックできないのだと考えます。翻訳者の立場で言うなら、作品(英文)を読んだあと、しばらくしばらく寝かせておかないと気づかないことがあっても、出版社側の立場でいうと、商売として成立すればいいとか、作家はアーティストであるけれども翻訳者は職人である、という思い込みがあるため、翻訳者には十分な時間が与えられないとかいう現実的な事情があるのだと思います。この作品については、"A Pale View of Hills"というタイトルについて、最初の邦題では、"hills"についてについて、訳出しないで上手に逃げていたのに、改題されています。日英を逆にするともっと、分かりやすいかのも知れません。たとえば「四月は君の嘘」というマンガのタイトルは"Your Lie in April"になってなっており(an Aprilではない)、邦題とはニュアンスが異なります。今や翻訳は「Googleでもできる」と考えられる時代になり、ますます、翻訳が乱暴になってきているように思います。

    返信削除
    返信
    1. HERBALISTさん、コメントありがとうございます。また、コメントいただいていたことに気付いたのが昨日だったため、 お返事が大変遅れましたことをお詫び申し上げます。確かに今は機械翻訳の精度がかなり上がってきたため、人間が行う翻訳の意義(人間の翻訳者が提供できる付加価値)が問われているのかもしれませんね。A Pale View of Hillsについては、問題の「we」の個所でとても感動したため(つまり、イシグロさんがこの一文を書くためにこのお話を書かれたのかなと思ったため)、どのように日本語に訳されているのかを知りたくて訳文を読み、びっくりしたので皆さんにお聞きした次第です。これからもいろいろな疑問について、HERBALISTさんをはじめ、色々な方からご意見をいただけることを願って書き続けていきたいと思っております。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

      削除
  2. このコメントは投稿者によって削除されました。

    返信削除
  3. Google+廃止に伴い、以下の方のコメントが掲載されなくなってしまいましたので、転載いたします。

    1.
    Narujimaさま

    まだこちらをご覧になっているでしょうか。

    私が「A Pale View of Hills」を読みましたのはかれこれ1年前のことになりますが、
    そのとき抱え込んだ謎がいまだに尾を引き、ときおりwebを逍遙、さまざまな解説やレビューを読み漁っています。

    こちらのページはごく最近見つけたのですが、まさに!まさに、私が感じていた疑問でしたので、思わず書き込みをさせていただきました。

    私はきちんと英語を勉強していませんので、この小説も、最初英語で読み、自信がなくて翻訳もあとから読み合わせました。
    が、そこで、Narujimaさんが書いていらっしゃるのと同じ、驚きと疑問に遭遇したのです。

    最近のamazon reviewには、何人か似たような疑問を投げているかたがいる一方、翻訳を素直に読んで、まったく異なる読後感を持たれたかたも多いようです。

    挙げていらっしゃる「we」についても、これはpaternal weだと反論されている投稿もありました。
    これは、英語をきちんと勉強していない私には判断出来ません。
    ただ、英語圏のレビューを読みますと、ここに代名詞の転換を読み取る読後感は少なくなく、paternal weは当たらないのではないか、と思うのですが、英語に堪能な方のご意見をお伺いしたいところです。

    それと、この小説の末尾では、単にweの出現だけでなく、その前後、アメリカ行きを強く促すEtsuko、アメリカに行ってもいやだったら戻ってくればいいのだとI promise.を繰り返す、そしてMarikoはEtsukoを怖れて逃げ去って行く。それら全体が、突然の色調の変化を感じさせます。
    その文脈でのwe、ここは「あなたと私、私たち、つまりMariko=Keikoと自分」を表すweにほかならない、英文で読んだときはごく自然にそう受け取りました。

    また、ここで代名詞の変化等で表されるいくつかの変容は、それは確かに驚きではあるものの、唐突というよりもむしろ、ここに来て、全編を通じて感じていた漠然とした違和感が一気に理解に導かれる、そこがこの小説の白眉だと思うのです。

    この小説を単なる中年女性の回想記、通常のリアリズムの小説と読むことも可能です(日本語訳ではそのように読めます)。
    けれども、全体を通じて感じる叙述の微妙な違和感は既に読み始めからあると思うのです。
    極端な情感の欠如(でもこれは、成人してから学んだ英語、という隠れ蓑の中に周到に隠されている)、例えば妊娠の実感がまったく感じられないこと、家族や婚約者(もしくは恋人)を失った悲しみにまったく触れられていないこと、義理で結婚したとおぼしき夫へ愛情どころか憎しみさえ感じられないこと、Sachikoが子猫を殺すのを間近に見ながら何ら行動を起こさないこと、等々。

    そうした流れがありつつも、全体としては一見通常の小説のように進行し、読者が殆どこれでこの回想録も終わりか、と思った最後の瞬間、突然ポジがネガになるように暗転、今まで読んできた各ページがまったく異なった世界となって立ち現れる。

    ところが、日本語訳ではその謂わば解決編がないままに淡々と終わってしまいます。
    翻訳者は既に亡くなられ、今さら疑問を呈することも出来ないようですが、どう思って訳されたのか実に伺いたいところです。

    あるいは、一部のレビューにあるように、私のそういう解釈は深読みしすぎで、実はやはりここには2組の母子が実在したのだろうか。
    私も英語と日本語訳、両方読まれたかたのご意見が伺いたいとずっと思っておりました。

    私自身は、この訳については、単に日本語の習慣がそうさせるのでやむなく、ではなく、この小説全体をどう把握するかについて、訳者に重大な判断ミスがあったのでは?と疑問を持たざるを得ないと考えていますし、後書きについてもちょっと疑問があるところです。
    ただ、英語ではさりげない代名詞の変化で推測させることが可能なところ、不自然でない日本語でそれを表すのはなかなか難しい面があって訳者は苦労されたのかもしれません。今となってはわかりませんよね。

    このたび、同じような疑問を持たれたかたのご意見が伺えてほんとうに嬉しく思いました。(長文、失礼お許しくださいませ)

    2.上記への返信
    verde arbolさん、コメントありがとうございます。また返信が遅れて申し訳ありませんでした。実はいただいたコメントが未だに自分のアカウントに配信されない問題で困っております。

    さて、貴重なご意見、本当にありがとうございました。こういう文学の問題は解釈の問題であり、判断が大変難しいところだと思います。実はverde arbolさんのおっしゃっておられるpaternal weというのを知らず、調べてみたのですが、私のリサーチスキル不足のせいか、情報が見つかりませんでした。

    ただ、結論から申し上げますと、私は小説を読む際は日本語の場合も英語の場合も、ストーリー、もっというと何らかのオチ(あるいはカタルシス)を期待する方でして、A Pale View of Hillsも、weの部分でそれまでずっと感じていた漠然とした曖昧さの理由が分かったような気がして、とてもうれしかったのを覚えています。そういう意味では私はverde arbolさんの解釈に近いと思っております。verde arbolさんと疑問を共有できたことを嬉しく思います。

    ただ、他方で、この小説の構成は複層的であり、かつ、確か、イシグロ氏も「人間の記憶のあいまいさ」がテーマだとおっしゃっておられたように思いますので、もしかしたら他の方がおっしゃるリアリズム小説のようにも読めるのかもしれませんね。私は最初英語で読みましたので、日本語で読んだ時は逆に英語の印象に邪魔されてしまいました。最初の印象は最初しか持てませんものね。。。 ただ、そういう色々な読み方ができるからこそ、イシグロ氏の小説は面白いと言えるのかもしれません。

    訳者の方が既に亡くなられておられること、初めて知りました。今となっては日本語訳はそれはそれとして受け止めるしかない、ということかもしれませんね。

    ちなみに話はそれますが、私は翻訳者を長年やっておりますが、文芸翻訳をやることは最初から選択肢にはありませんでした。こと小説に関しては、いったん翻訳されてしまうと著者の手を離れた作品になってしまうのでは、ということは子供の頃から感じており、もっと白黒つけやすい分野で日々英語と格闘しております。

    私も長文、大変失礼いたしました。繰り返しになりますが、いただいたご意見、大変ありがとうございました。今後も、英語のこのようなお話をまたできましたら大変うれしく存じます。どうぞよろしくお願いいたします。

    返信削除
  4. (続き)Google+廃止に伴い、以下の方のコメントが掲載されなくなってしまいましたので、転載いたします。

    3.
    Narujimaさん、
    ご返信ありがとうございました。

    ご返信をいただきましたあと、あらためてあちらこちらのレビューを見たりして考え込んでしまい、すっかりお返事が遅くなってしまいました。

    paternal weというのは、amazonのレビュー(おそらく英語で読まれたと思われる)にある方が書いていらしたもので、私が調べました限りでは、例えば以下のような説明になっています。
    http://www.englishcafe.jp/answer/and-2.html
    ですから、通常の母親と娘の会話ならば、こうした場面で使われることはあるかもしれませんね。
    ただ、Amazon投稿者の方は、MarikoとKeikoは同一人物ではない、と捉えていらっしゃったので、親子としてではなく、保護者的な立場の隣人としての発言、ということだと思います。しかし、もしも他人ならば、あの終始傍観的なEtsuko がそこまで踏み込むか?
    そこが、解釈の食い違うところですね。

    おっしゃるとおり、文学というのは、何層もの厚みを持っていて、読む人によって、また、おなじひとでも、読む年齢、立場等によって、さまざまなとらえかたが出来るものだと思います。
    受験のような「正解」はないのでしょうね。

    例えば、この小説も、「日本人的」という側面を強く意識した読後感を書かれたかたは多く、またほかに、「原爆・長崎」「女性の自立」「価値観の転換期における人間の行動」等、切り取り方は実にさまざまでした。

    私はこの小説の主題は、子どもを喪ったことへの自責、それ以外に考えられなかったので、それ以外の主題を見いだした方が思った以上に多かったのは驚きでした。
    けれども、それは、私の個人的な背景による読み方だったのかもしれませんね。

    ところで、既に見つけていらっしゃるかもしれませんが、イシグロ氏自身がこの小説について語っていらっしゃる記事があるようです。
    http://thefrenchexit.blogspot.com/2011/06/what-hell-is-up-with-pale-view-of-hills.html
    実際はこの元記事があるのですが、サインアップしないと読めなくて。
    https://www.theparisreview.org/interviews/5829/kazuo-ishiguro-the-art-of-fiction-no-196-kazuo-ishiguro
    また、ほかに、このようにこの小説の翻訳の難しさについて述べている記事がありました。
    https://www.yomiuri.co.jp/fukayomi/ichiran/20171023-OYT8T50033.html?page_no=3&from=yartcl_page
    翻訳のお仕事をされているのですね!
    いろいろとご苦心がおありのことと思います。
    言葉は、背負っている歴史や背後の文化・習慣あってのものですから、幅広い知識が必要とされるたいへんなお仕事と存じます。

    文学はとりわけ、おっしゃっているように、「解釈」が入り込む余地が多く、また、翻訳の文体によって内容のイメージまで変わってしまいます。
    私は、子どもの頃、アルセーヌ・ルパンが大好きだったですが、これが、新潮文庫の堀口大學氏の訳でした。ご存じでしょうか、実に文学的?でセンチメンタルなんです。
    大人になって、別の訳を読みましたら、ただのおっさん犯罪者!ショックだったのを覚えています(笑)

    この、小野寺氏の訳を評価する声は多いようですね。
    確かに、会話などいかにもの流れでよどみなく、翻訳臭さがありません。
    また、例えば一部のひとが批判している、長崎弁でないことなど、そもそもイシグロ氏がこの小説の舞台を当初英国に置いて創案していらしたことから考えても、必ずしもそうしたローカル色が必須であったとは思えず、適切な選択だったと私は思っています。

    けれども、この小説全体をどう見ていらしたのか。
    あるいは、その解釈を翻訳にどう表現しようとされたか。お話を伺いたかったです。

    私は、英語はほんの初歩しか理解出来ず、辞書を片手に楽しみで読んでいるだけなのですが、この物語を読みました後、あまりにざわざわと胸が騒ぎ、理解が十分でないような気がしましたため、確認のため再度、今度は日本語訳で読んだのでした。
    それで、あれっ?と思った次第です。

    以来、ずっと気にかかっておりました。
    こうして思いがけず他の方のご意見が伺えて、私もとても嬉しく存じました。ほんとうにありがとうございました。

    4.
    verde arbolさん、ご返信ありがとうございました。そしてリンク等の色々な情報もいただき心より感謝しております。「2つの解釈(悦子と佐知子が同一人物か否か)」にしろ、verde arbolさんの「子供を喪ったことへの自責」にしろ、皆さんがいろいろな読み方をされていることを改めて感じました。(私はどちらかというと定まっていなかった焦点が定まったことへのカタルシスにばかり気持ちが向いていました。)

    ルパンが堀口大學によって訳されていたことも初めて知りました。文学的になるのは当然ですね。実は今回アップした記事にverde arbolさんのことを紹介し、翻訳に関する別の体験について書かせていただきました。

    以前、会社の人と翻訳について話していた時に、ポロっと「翻訳は必要悪」だと言ったことがあります。あまりいい言い方ではないのですが、言いたかったのは「翻訳なしで直にコミュニケーション出来たらそれがベストだが、不可能なので翻訳は必要なのだ」ということです。それが正しいかどうかは今でもわかりませんが、翻訳(そしてもちろん通訳)もとても大切なことだと自覚しております。ただ、時々、どっちつかず(人と動物の戦争の物語の中の蝙蝠)に感じることもありますが。。。

    繰り返しになりますが、コメント、ありがとうございました。こんなに深い話ができて私の方こそ感謝しております。久しぶりに感動しました。急に寒くなりました。どうぞお体にお気をつけてお過ごしくださいませ。今後ともどうぞよろしくお願いいたします。

    返信削除

Grasshopper (Atractomorpha) オンブバッタ(負飛蝗)

英語の後に日本語が続きます。 These are grasshoppers. Simple and clear. The issue is, however, their relationship. For example, a man passing by me taking ...